アセチルコリンの減少

 

 老年期のアルツハイマー型痴呆の根本的原因はまだほとんど解明されていないのが現状です。しかし、脳内に異常があらわれ、最終的に神経細胞の脱落や変性が起こり、その神経細胞が果たしていた機能が失われていくことはどうやら間違いなさそうです。

 では、痴呆の中核症状である認知機能の低下は、脳の構造や機能とどのように関係しているのでしょうか。それを見ると、痴呆の病態や進行のプロセスがよくわかります。

 神経伝達物質(神経細胞同士が脳で情報のやりとりをするときの接点をシナプスと呼ぶ。このシナプスで信号を伝える役目をする物質)にはセロトニンドーパミンノルアドレナリンなど、さまざまありますが、記憶や学習に最も重要な役割を果たしているのはアセチルコリンです。たとえばマウスなどの動物にアセチルコリンに拮抗する作用をもつ物質を投与すると記憶が障害されますが、その後アセチルコリンを増加させる作用をもつ物質を投与すると、記憶障害が改善することが実験結果からわかっています。

 アルツハイマー型痴呆では、神経伝達物質の分泌量が全体的に減少しますが、なかでもアセチルコリンの量が非常に減少していることが報告されています。

 アセチルコリンを分泌する神経細胞は大脳基底核にあり、そこから神経突起を大脳全体に伸ばしていますが、アルツハイマー型痴呆ではこのアセチルコリンを分泌する神経細胞が七五%減少したとの報告もあります。

 また、アセチルコリンの量の低下と認知能力の低下が相関していること、さらに、アセチルコリンを合成する酵素(アセチルトランスフェラーゼ)の活性が、アルツハイマー型痴呆では同年齢の正常者より低下していること、アセチルコリンを受け取る受容体(レセプター)が海馬や大脳皮質で減少していることも報告されています。

 アルツハイマー型痴呆では、側頭葉内側部の海馬の近くにある海馬傍回という部分から障害が始まると言われています。ここは、大脳のさまざまな部分に連絡する神経細胞が集まっている部分です。その後に海馬そのものが障害され、さらに大脳皮質の側頭葉から、頭頂葉、前頭葉へと障害が広がっていきます。

 その結果、発病後およそ十年を経過した重症のアルツハイマー型痴呆になると、脳がひどく萎縮し、脳の平均重量(一四〇〇g)のうち三~四割が死滅してしまっていることも少なくありません。

 余談になりますが、この脳の萎縮という事実こそ、アルツハイマー型痴呆の発見にあたって、大きなカギとなったのです。

 ドイツの精神科医アロイスーアルツハイマーが一九〇六年、五十六歳で死亡した女性の痴呆患者の脳を病理解剖したところ、脳が大幅に萎縮していることがわかりました。彼女は死亡する五年前、五十一歳のとき、夫に対する嫉妬妄想を示しはじめ、記憶力も低下していきました。家事でひんぱんにミスをし、家計にも無頓着になるなど、症状はどんどん進行していきます。そのうち、近所の家のドアをたたいてまわるといった異常な行動も目立つようになりました。

 それで入院してきたわけですが、彼女の場合、発病が五十一歳と比較的早い点に特徴がありました。つまり、それまで痴呆というのは、もっと年をとってから発病するものと思われていたのです。ですから、この女性の脳の萎縮がアルツハイマー病と名づけられた時点では、老人性の痴呆とはまったく別の病気であると考えられていました。

 ところが、それから七十年以上経った一九七七年、両者を比べてみたところ、脳の萎縮の状態がまったく同じであることがわかったのです。そこで、両者を統一する病名として、アルツハイマ-型痴呆というのが用いられるようになりました。

 さて、それはともかく、アルツハイマー型痴呆で神経細胞が死ぬときは、まず樹状突起先端のシナプスが消えていき、次に突起が衰えて減少し、最後には神経細胞本体もなくなります。たとえば、脳全体の重量が二割減少したときには、神経細胞は半分近くになっている可能性もあると言われています。

 このような脳の萎縮につながる神経細胞の変性・脱落の前段階の変化が先に述べた老人斑と神経原線維変化なのですが、最終的に痴呆の症状レベルを決定づけるのはこの神経細胞の脱落だと言えます。