神経細胞についての間違った医学の常識

 

 さまざまな実験、研究が行われているのは、医学そのものがそれこそ日進月歩の勢いで進歩発展しているからです。そのため、。昨日の常識は、今日の非常識”といったようなことも起こり得るのです。

 たとえば、従来の医学の常識では、神経細胞というのは一度死滅したら再生しないとされてきました。つまり、神経細胞というのは生まれたときにすでに完成しており、その後はただ死滅していくばかりだというのが、ここ二十年ほどの常識だったわけです。実際、高校の生物の授業でもそう教えています。

 こうした常識がまかり通っている現状においては、アルツハイマー型痴呆は絶望的な病気だというので、医者も病名を患者さんに告げにくいという状況があります。しかし、近い将来、こうした脳の研究がもっと進めば、別の可能性が見えてくるかもしれません。

 事実、十年ぐらい前からそうではないということがわかりはじめているのです。最初は神経細胞と神経細胞をつないでいるシナプスが常に生成したり消えたりして変化しつつあって、これがどんどん増えていけば、神経細胞が一つやられたとしても、それを迂回するような広大なネットワークの中で十分補い得るという楽観的な考え方があり、最近では神経細胞そのものが再生すると思われています。

 これを「脳の可塑性」というのですが、ごく最近では、そこに介在する重要な因子(NGFと呼ばれる神経細胞成長因子)が発見され、そのNGFが機能が低下したり萎縮しつつある神経細胞を活性化し再生させると考えられているのです。

 たとえば、タバコを一本吸うと何万個もの神経細胞が死滅すると言われていますが、最近では、そうではない可能性が高いのではないかと考えられています。わかりやすく言うと、神経細胞が“冬眠する”という考え方です。

 冬眠ですから、一定の条件が再びととのえば再生してきます。神経細胞には、自己保存の法則というものがあり、これ以上働いていると傷んでしまうというタイミングで、みずから機能をいったん停止するのです。

 もちろん、死んだわけではありませんから、十分な栄養を与えてやりさえすれば、たちどころに復活します。一個一個の組織自体が防衛機能をもっていて、その組織が危ないと思うと、全部遮断してしまって生き長らえるというのです。

 たとえば、交通事故で脳死の状態と思われている人に高圧酸素療法をほどこすと脳細胞が奇跡的に復活するケースがあります。CTやMRTIなどの画像診断では死滅しているように見えますが、実際には眠っているだけのものも結構あり、高圧酸素療法で脳細胞が復活すると、神経細胞は樹状突起をニョキニョキ伸ばし、自力で相手(別の神経細胞)を見つけてネットワークをつくっていくわけです。そういうふてぶてしさというか、たくましさのようなものが脳の神経細胞にあるということが最近わかってきました。こうした発見は人類に大きな希望をもたらしてくれます。

 アリセプトは現在のところ、アルツハイマー型痴呆の脳において減少状態にあるアセチルコリンの機能をできるだけ長く維持することによって、記憶や学習などの認知機能を高めることができるのではないかという発想のもとに開発された薬ですから、あくまでも対症療法の域を出ません。

 そうした現状を俯瞰して考えれば、アリセプトアルツハイマー型痴呆の治療薬としてはほんの第一歩にしか過ぎませんが、もっといい治療薬ができたときにそこにつなげていくことができればいいのではないかと、私は考えています。

 ただ、たとえすぐれた薬剤が開発されても、医師の側にアルツハイマー型痴呆についての正しい理解と薬剤の作用についての知識が浸透していなければ、その意味は半減してしまいます。

 その点で、アリセプトを適切に使えるようになるということは、今後の薬剤の使用法の布石を打つ意味でも重要になってきます。

 薬というのは使わなければ意味がないわけで、アリセプトがうまく使えるようになるということは、将来、痴呆用の薬剤がもっと進化したとき、それをうまく使えるようになるための”地ならし”としてきわめて垂要なことではないでしょうか。

『快老薬品』酒井和夫著より