言語能力の発達:命令(マント)と叙述(タクト)


 社会から分裂する仕方が二種ある。一つは、精神分裂病であり、他は、失語症である。もし、人間性の発達をオーケストラにたとえるならば、精神分裂病は指揮者を失ったオーケストラであり、失語症はメンバーがひどく疲労したり、病気になったりした楽団であろう。前者は、言語的習慣を失わず、概念を使うことができるが、統一した社会的人格をもっていない。後者は、社会的人格があるが、社会生活に必要な「ワクづけ態度」を失い、概念がもちいられない。

 コドモは積極的に他人を模倣しつつ、社会の言語を自己のものにするが、最初は相手とのコミュニケーションということ、自分の考えを他人に伝えるという目的を十分に意識しない。ピアジェが研究したように、ひとりごとをいったり、他人のいうのをきいて反復したり、また、他人と話しているような恰好でひとりごとをいっていたり(集団的独語)することが多い。こんな非社会的言語は三歳から五歳までで五三(Iセントー六〇パーセント、五歳から七歳までで
はいくぶん減ってきて四四(Iセントー四九パーセントとなっている。

 非社会的で、自己中心的な子供の言語は、だんだんに社会的言語となり、相手の質問に適応した報告、相手の批判、命令、質問、応答というものになってゆくのである。

 ジャネは言葉が命令と服従の関係から生じたと主張した。何匹かで狩をするイヌは、先のイヌも後につづくイヌも、ほえながら活躍するが、もし分業して、一匹はほえるだけ、他の一匹は獲物を追うだけだとすると、エネルギーの節約ができるかも知れない。このとき、ほえるイヌは命令し、ほえないイヌは服従する。イヌでは、実際にはこんな関係は成立しないが、もし成立すれば社会的関係ができ、命令と服従の関係で言語ができるのだというのである。
                  丶丶                                     8
 ジャネの考えが正しいかどうかはべつとしても、言葉で表わすということが、いつも他人に対するよびかけであり、命令法であることは異論がなかろう。

 「この花は赤い」というのは、本来「この花は赤いということを知れ」ということである。自分一人だけの世界では「この花は赤い」などという必要はない。他人によびかけるのが言語である以上、叙述もすべて命令である。

 他人の考えに対して働きかけ、自分のほしいもの、自分の興味をもつものへ、他人を引きこんでゆくのが言語である。他人の気づかぬ所を教えてやる、他人の考えに反対してこれを自分と同じ考えにしようとする、他人に自分の関心事をおしつけ、自分の疑問に答えさせる言
語の作用はこのようなものである。

 話すことも、断定を下したり、否定をしたりすることも、すべて、相手に対する態度なのである。

 このような意味で言語がすべて命令だとしても、「水をくれ」という命令文と、叙述文が文法上区別されていることは、一応、両者に差のあることを示すであろう

 スキナーが、言語の機能を、マントとタクト(tact)にわけ、「それをくれ」というような要求や命令をする前者と、たんに、「……である」という叙述の働きをする後者をわけだのは当然である。コドモの=トバで、「ちょうだい」といって与えられると、それをくりかえす傾向か生じ(強化)、マントは早くから発達する。タクトのほうは、正しい言葉を使ったとき、母親にほめられたりすることで発展(強化)するのである。