遺体解剖に対するフランクフルト学派的考え方

医学は進歩的思想(医学は進歩しなくてはならないというドグマ)と強く結びつきますが、これはAiの基本的概念と不可分です。遺体にあ値する画像診断は、旧来の手法に比し有利で優れているというのがAi推進論者の論拠であり、このことに強い疑いを呈することは困難です。

しかし、頑強な理性批判を行ったフランクフルト学派の第一世代・アドルノらはおそらく、Aiについて医学の進歩的思想や理性による人間支配への批判と同じ文脈でコメントするでしょう。

Aiについてフランクフルト学派がどう考えるかを検討することは、Aiの光と影の部分を明らかにすることになります。

具体的な場面を想像してみましょう。

腹部大動脈瘤を有した68歳の男性が突然腹痛を訴えショック状態となり救急搬送されたが、到着時既に心肺停止状態で蘇生の甲斐なく死亡した。救急医は解剖を家族に勧めたが、家族は解剖を拒否する。そこでせめてAiだけでも、と救急医が提案する。

極端なたとえになりますが、もし家族にフランクフルト学派がいれば、「Aiを施されることは、家族の死体に対する道具的理性による過剰な支配を許すことになる。本来家族のものであるべき身内の死が、画像データベースに同一化され、私たちの手から離れる。私はそれを許容できない」となります。あるいは「私は医学に不信感を持ち医者も信用できない。この病院でAiをやっても都合の悪いことは隠蔽され、私たちにメリットはない」と突っぱねるかもしれません。

前者の言い方は私的な領域にある家族の滋賀、医学という管理的な知の体系に組み込まれることへの拒否反応です。背景にはフランクフルト学派が提案した理性批判の考えが含まれます。

後者は医療不信の家族からしばしば聞かれるコメントです。これも極端な理性批判に陥った第一世代フランクフルト学派の主張と足並みをそろえた考え方といえます。