Seamus Heaney訳のベオウルフについて


(Alexander Aciman氏のコラムを和訳)

私は8年生のクロスカントリーのミーティングでSeamus Heaney訳のBeowulf(ベオウルフ)の読み上げ授業を始めました。以前はこの話について何も知りませんでした。それどころか、英訳文の裏側にある言語が英語であることすら知りませんでした。Beowulf(ベルウルフ)とはいったい何なのだろう? 私の両親の友人はなぜこれが最高の誕生日プレゼントだと思ったのだろう?

それからかなりの月日を経て、Heaney、アイルランド現代詩は、古英語( Old English )の叙事詩の翻訳で文学的スターダムという評価を全く受けていないことに気づきました。

この詩は偉大な現代主義的作品が終わるときの「So」という調子で始まります。まさにこれが、後に教授が教えてくれた「核心への大胆な動き(an audacious swing at in medias res)」なのです。Heaneyの「So」は、読み手に対する無情な訴えであるため、この詩は、キャンプファイアを囲んで語るような感じで始まります。

Heaneyの翻訳文は、Homer訳のFaglesのように読みやすいことで有名なだけでなく、内容の核心部を捉えています。1000歳のサガは、多くのベストセラーリストに載り、数えきれないほどの読み上げ指定カリキュラムに組み込まれ、交通機関(public transport)でも教室と同じくらいの頻度で見かけることができます。

Heaneyの翻訳文を読み始めた年は、最悪な年でもありました。私はハロウィンのコスチュームをばかばかしいほど危険な感じに武装したものにするよう強く要求しました。感謝祭の食事( Thanksgiving meal)でスカンジナビア王になり、七面鳥を食べる際にもナイフやフォークを使わず、両親が私のことを叱るべきかどうかもわからない状態にしてみたいと思ったのです。

私は二言語翻訳( dual-language translation)の裏側にある暗号を解読し始め、それが失敗に終わった後は、他の話を読もうとしましたが、Beowulfと同じようなものはありませんでした。ArthurはBeowulfにマッチしていませんでした。私はJ.R.R.Tolkien訳の古英語文書を読もうとさえしました。しかし、自分がBeowulfの兵士と同じくらい彼のことを愛していることにすでに気づいていました。叙事詩に出てくる本当の英雄のように、彼は殺し好んでいませんが、そうしなければならないときにはものすごくかっこよく仕留めます。

Burton Raffel訳のBeowulf(学校の図書室にあったバージョン)を読まなければならなかった高校生の頃でも、Heaneyのものを再び読みました。Heaneyの翻訳文は臆面もなく現代的であり、楽しんで読むことができるからです。