脳死と植物人間状態の違い

 脳死と植物人間状態とは基本的には異なっている。脳死には大脳も脳幹も、つまり脳の、すべてが死んで、それがやがて心臓死に至るという意味が含まれる。ところが植物人間は、大脳は死んだが、脳幹は生きている状態の人間である。植物と同じように成長や発生の能力はもっているが、知覚や思考、判断などの能力はもう残っていない。外からの刺激に対して、手を動かしたり、目の開け閉じをしたり、何かうめき声を発することができるだけだ。

 植物人間は自力で呼吸もできる。栄養補給や排泄はチューブなどで行なわれる。植物人間の中には、意識もあり外側から話している人の意味を理解できる患者もいるという。だがそれを表現する言葉や発声ができないケースと思われる患者が稀にはいるという。

 それゆえにいちど植物人間になったあとに、まだ大脳の傷が浅かったためか、意識を戻して会話を交したり、食事をしたりと回復状態になる者もいる。そのケースがどれほどあるかははっきりとしていないが、医師たちは、極端に少ないにしても植物状態からの回復はまったくないとは断言できないといっているのだ。

 植物人間が生きた状態か、それとも死んだ状態か、の判断はまったく個人の死生観や哲学によっている。ただ医学的には死んだ状態とはいえない。自力で呼吸をするし、身体にはぬくもりもあるし、髪も伸びるし、「知覚や思考、判断能力がない」以外はほとんどの臓器が活動しているからだ。

 尊厳死に賛成する人は、植物人間状態を「尊厳ある生」とは認めないために、その生を否定する傾向にある。この判断自体、今後の医学の進歩と微妙にかかわっているといえる。

 ここで危険なのは、植物人間状態で尊厳死を希望している患者が、さらに臓器の提供を申し出ていた場合である。あるいは患者の家族がそのことを認めた場合である。もしこの希望がそのとおりに通れば、これはまさに生体解剖、生体からの臓器摘出というかたちをとることになる。

 むろん現代医学に携わっている医師の倫理性はこのようなことに手を染めない。だが臓器移植推進の強硬な論者の論には、このような摘出を望む声がまったくないとはいえない。それに手を貸す医師がただの一人(実際には一人で行なえるわけではないが)もいないとの保証はない。こういう事態になれば、高度な医療はそのまま危険な道を走っていく。とくに植物人間になっても、まだ意識があり、たまたまそれを伝える能力や手段が失われている場合は、患者はたとえ尊厳死を希望していても取り消したいと思っているかもしれない。だがそれを伝える手段はないとの、まるでミステリーのような状態とてありうるのだ。

 尊厳死脳死判定と結びつくことは、今後は不可避と思われる。だが、臓器移植と結びっく場合は、尊厳死を望む人自身が日ごろから医学や医療についての知識を高めていなくてはならないといえるだろう。

 脳死、臓器移植、植物人間、末期医療、すべての問題は個々に存在しているように見えるのだが、そういう問題の底流に横だわっているのはたったひとつの幹、つまり「私は死をどう考えるか」という問いとそれに対する自らの答えである。

 尊厳死が個別に切り離して論じられているだけでは、単なる自己の権利獲得と称する社会運動だが、究極には医学や医療の全域とからみあう死生観問い直し運動だという認識が必要だ。脳死や臓器移植は、そのことを適確に示しているといえるのである。


安楽死尊厳死保阪正康著(1993年)より