脳死を認めない日本

 先進諸国で脳死を公式に認めず、それゆえに臓器移植が行なわれていないのは、日本とイスラエルだけである。イスラエルは宗教上の障壁があり、国民的合意を得るまでには至っていない。だが日本のように宗教的な制約があるわけでなく、医学知識や医療水準もその医療を行なうレベルに達しているにもかかわらず、実施されていないというのは確かに珍しい。

 なぜ日本では脳死判定が採られず、臓器移植が行なわれないのだろう。

 海外の移植医はそのことに一様に首をひねる。臓器の必要な患者(レシピエント)は、アメリカやイギリス、オーストラリアにでかけて臓器の提供を受けている。日本の新聞にはそれが美談風に報じられることもある。フィリピンにでかけて臓器を買うというケースもあるといわれ、これはこれで内外から批判を受けてもいる。

 日本の移植医は一刻も早く日本でも行なうべきだと主張する。臓器移植後進国だといって嘆き、年間に数千人の臓器移植を受けたい患者が死んでいるともいう。推進派の移植医たちは今や焦りの極に達しているかのようだ。これに対して反対派の医師たちは、「脳死は死ではない」「臓器移植は社会的弱者の切り捨てになる」と激しい口調で反撥している。

 脳死判定が認められず、臓器の提供を受けられないために心臓や肝臓の臓器を移植してほしい患者は、自前の資金で外国にでかけて手術を受ける。その構図を尊厳死安楽死にあてはめてみたらどうだろう。たとえば日本では、積極的安楽死が認められていないということで、海外にでかけたらどうか。むろん末期患者はそんなに簡単に移送できるわけではないし、「死」の場所を海外に求めるということなどありえないという声もあろう。

 だが臓器移植とて、海外に臓器の提供を受けにいく患者など十年前には考えられなかったことだ。それに海外に臓器移植の手術を受けにいって、順番を待っているうちに死亡した患者とて少なくない。それを考えれば、いずれ安楽死を求めて海外へという事態もありえないわけではない。

 日本人は他国の臓器をカネで買っている、と批判されるのと同じ論法で、日本人はカネをもってわが国に死の医療を受けに来る、と批判されるかもしれない。

 なぜ日本では脳死判定が認められず、それゆえに臓器移植が行なわれないか、その背景をさぐっていくと、結局は日本人の死生観につきあたる。前述のように日本人の宗教、倫理、文化などが「死」について明確な答をだしているわけでないから、アメリカやヨーロッパのように明確な答をだせないでいる。その答をだせないというところに、日本人がこの最新鋭医療に取り組めない理由がひそんでいるのである。

 

安楽死尊厳死保阪正康著(1993年)より