文献翻訳の業績をめぐる学術界の矛盾

私は日本の英語教育は明治初期の目的が達成されるにつれて、だんだんと虚学としての教養主義と、明確な目的をもたない実用会話に二極分解し、しかもどちらもうまくいっていないことを指摘しました。その上、教育のすべての段階において、授業がパラパラで一貫性を欠いているために、大変な時間と労力を費やすわりに、満足な成果を得ることができない状態にあることも指摘しました。

 だからこそ私は、現在大国となった日本が最も必要としている、日本人の英語による自己表現と日本に関する情報の国外に向けての発信を、いま英語教育の一貫した目的とすべきだと主張するのです。

 じつは私か日本語文献を外国語に翻訳する問題を、日本の外国語教育の抜本的な方向転換との関連で本気に考えるようになったそもそものきっかけは、次のようなふさな事件でした。

 だいぶ前のことになりますが、ある有名な私立大学が大学院を新設するにあたって、私を講師陣の一人に加えるために、文部省に提出する業績調書の作成を、私に依頼してきたことがありました。私はこの調書を書くに際して、自分の書いた論文や著書の他に、私の著作のうち、それまでに外国語に翻訳され、海外で利用されているもの(英語に翻訳された論文が数点、韓国語になったものが二点、フランス語へのものが二点、そして単行本としては英語とドイツ語に翻訳されたものがそれぞれ一点)をも、併せて記入しておいたのです。

 ところがしばらくたって、その大学の事務局から電話があり、大変中しわけないがこれらの項目は先生の業績としては認められなかったので、削除して調書を書き直してほしいとのことでした。私は不審に思って、なぜ私の著作が外国語に翻訳出版されているという事実を、業績一覧に含めてはいけないのかの理由を尋ねました。相手の人の言うには、私が何か外国語の文献を日本語に翻訳したのであれば、それは私の業績になるが、反対に私の書いたものを誰か他の人が外国語に翻訳した場合、これはその人の仕事であって私の業績ではないからとのことでした。

 たしかにこの返事は、ある意味では理屈が通っています。実際、私がこの話をした知り合いの大学教師も皆、それはそうだろうと言いました。つまりこのような考え方は、どうも今の日本では当たり前のことと受け取られているらしいのです。

 でも私は、日本の学者が他人の書いた外国語の文献を日本人のために日本語に翻訳すると、それは当人の学問業績に数えられるのに、私たち日本人の作品が外国語に翻訳され国外で流布しても、それは原著者である日本人の業績とは認められないとする常識は、国際化の時代と言われながらも、依然として判断の基準を、日本国内での貢献度のみに置く時代錯誤であって、 早急に改められるべきものと思うのです。

 日本ではいま自然科学、そして医学や技術の領域などでは、すべてではないにしても、重要な論文や著作は、国際的に広く利用されることを念頭において、はじめから英語で書かれる場 合が多いようです。そして一部の学問分野では、サイテーション・インデックスなどと呼ばれる、ある論文が内外の研究者によってどれだけ引用され利用されているかを示す指数を使って、その仕事の客観的な価値や評価を計ることも行われています。

 これに対して一般に人文系と呼ばれる社会や文化、歴史といった主題を扱う日本人の研究や著作は二部専門家による言語学や外国文学の研究などを除けば)、その殆どすべてが日本語で書かれるのが普通であって、扱う対象が日本の事物や社会現象であったり、日本人である著者の考えや主張を述べたりする著作の場合はとくにそうです。その主な理由として、この種の著作の場合は、自然科学や技術などのものとは違って、その内容が、それを表現するのに用いられる言語、つまり日本語と密着し、日本語に依存する度合いのはるかに強いことがあげられます。日本文化に固有な概念や、日本の社会に独特な事実や現象は、それに対応するものをもたない外国の言語に翻訳することが、大変に難しいのです。

 その結果として、いま外国の人が自分で直接にこれら日本語で書かれた文献を読んで、そこから日本について何かを学んだり、日本人特有の学問や思想、あるいは事実や行動様式を知ることは当然のこととして、非常に少ないのです。それというのも、日本語の話しことばならばかなり上手な外国人が増えている現在でも、率直に言って日本語の本や雑誌が楽に読める人は、いまだにごく限られているからです。

 現状がこのようであるからこそ、いま日本語がよく読める少数の限られた外国人が、わざわざ選んで外国語に翻訳してくれ、海外で多くの人の日本理解を深めるのに役立っている「日本語文献の外国語訳」の意義を、高く評価すべきだと思うのです。

 そしてこの作業を少数の外国人有志だけにまかせておかず、日本人自身が本気で、この仕事に取り組む必要があるのです。大学での一般の英語の授業を、日本物の英語訳を究極の目標として再編成すべきだという私の主張は、以上の経験と考察から生まれたのです。

 明治以来の口本の英語教育が、もっぱら英語の文献を日本語に翻訳することで、日本国内の近代化(西洋化)と民主化(米国化)を推し進めてきたように、今度はその照準を国外に合わせて、日本の優れた言語文化情報を次々と英語化し、それによって情報の輸出入に現在見られる不均衡を正し、同時に世界全体の文化の向上に貢献すべき時がきたのです。

 鈴木孝夫『日本語は国際語になりうるか』より

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