エイズに挑む人間:SDF・1(細胞間情報伝達物質)が発症を遅らせる

 1980年、WHO(世界保健機関)は天然痘ウイルスの根絶を宣言した。人類が病原体ウイルスを地上から駆逐することができた最初の(そしておそらく最後の)勝利で、誇らしげなWHOの発表に人々は医学ひいては科学の進歩を頼もしく感じていた。しかしその翌年アメリカでヒトにとって史上最強の敵、現代のペストともいわれるエイズが初めて報告されたのは極めて皮肉な出来事たった。

 今ではよく知られたエイズ(後天性免疫不全症候群)はHIV(ヒト免疫不全ウイルス)の感染によってもたらされる。エイズとはHIVの感染によって免疫力が低下し、それがもとで引き起こされる数々の感染症の総称である。

 HIVは感染力の弱いウイルスで、感染してから症状が出るまでの潜伏期間も長く、一〇年で感染者の半数が発病する。しかも、最近ではエイズの治療法が進展し、発病をさらに遅らせることも可能になりつつある。とはいえ、まだエイズから死の危険性をとり除く決定的な治療法は見つかっていない。

 エイズ流行以来、これまでに世界で一二九〇万人が死亡し、毎年六〇〇万人近くが新規にHIVに感染している。WHOの推計によれば、一九九九年現在世界のエイズ患者数は三三六〇万人に達するという。

 一方で、エイズに抵抗性をもつ人々にも注目が集まり出した。もともとエイズHIVの感染から発症までの期間が長いが、個人差も大きい。感染から一五年以上も経つのにいまだにエイズの症状が出ず、健康に暮らしている人も存在する。彼らがエイズを発症しない理由は何か。その原因の究明がはしまった。

 HIVは感染すると免疫系のマクロファージとヘルパーT細胞に侵入する。マクロファージは貪食細胞ともいい体内に侵入した病原菌などを飲みこみ、ヘルパーT細胞は外敵の侵入に際して他の免疫細胞に攻撃指令を出す働きをしている。エイズのせいでヒトの抵抗力が低下し、次々に感染症を併発するのは、こうした免疫細胞を標的にしているからだ。

 HIVがマクロファージとヘルパーT細胞に侵入するには、前述の「鍵と鍵穴」システムが必要である。HIVがもつ鍵はgp120というタンパク質で、マクロファージの鍵穴はCD4とCCR5という二つの受容タンパク質である。CD4とCCR5はどちらも免疫系の情報伝達に関係するタンパク質で、HIVはここにとりついて細胞内に侵入する。

 ちなみにすべてのウイルスは細胞表面に出ている特定のタンパク質(鍵穴)に結合して細胞内に侵入する。ウイルスによって感染する細胞が異なるのは、細胞によって鍵穴が異なっていることによる。

 うまくマクロファージに侵入したHIVは遺伝子に変化を起こし、侵入に使ったCCR5用の鍵を、CXCR4という別の鍵穴(受容タンパク質)に入るように改良する。なぜなら、ヘルパーT細胞の鍵穴はCXCR4とCD4だからだ。こうしてHIVは次にヘルパーT細胞にも侵入をはじめる。

 そしてまず、エイズの長期未発症者からCCR5受容体の遺伝子に変異が見つかった。この変異遺伝子を】つだけもっている人ではHIVに感染してもエイズの発疱が遅れ、変異遺伝子を二つもつ人ではそもそもHIVが感染しにくいことも明らかになった。変異遺伝子によってつくられる異常タンパク質をHIVが利用できないためだ。

 ふつうなら変異遺伝子を二つもっていれば、正常な受容体タンパク質がつくられず、なんらかの障害が現れそうなものである。マクロファージのCCR5は病気や細菌の侵入に際して発せられる集合命令を受けとる受容体で、集合命令に当たるシグナル物質を受けとると現場に急行し、細菌や異物を片づけてしまう。その遺伝子が変異すると困ることになりそうだが、この場合、ほかの遺伝子が代役をつとめてくれるらしく、変異遺伝子を二つもつ人にも異常は現れない。これも遺伝子の複雑さの一端をかいま見させるものだ。

 また、受容体タンパク質と本来くっつくべきシグナル物質側にもエイズ抵抗性の強弱を決める要因があることが見つかった。SDF・1という細胞間の情報伝達物質の一種は、ヘルパーT細胞のCXCR4の鍵穴に入ることで細胞の制御を行う。そしてSDF・1のある型をもっているHIV感染者にも発症遅延効果が確かに認められるという。