マラリア感染に抵抗する劣性遺伝子


 感染症をもたらす病原菌に対して、人間は「薬」で対抗してきた。それは薬草であったり、また近年では化学合成物質であったりする。五〇〇万年のヒトの歴史で、つねにヒトを攻撃して飽きることのないマラリアとの戦いで、いったいどれほどの人間が敗れ死んでいったことか。人類がキニーネという強力なマグナム弾を手に入れたのはほんの三五〇年前のことだ。それまでのヒトはいつもマラリアの影におびえていなければならなかった。

 しかしである。マラリアがそんなに恐ろしい敵なら、なぜヒトはマラリアによって絶滅させられなかったのだろう。薬もない何百万年もの間、なぜヒトは生き延びることがことができたのか。

 それはまず第一には、ヒトという生物が本来的にもつ抵抗力のおかげたといえるだろう。第二には薬草などの服用が挙げられるとしても、ヒトと病原菌との戦いにおいて、ヒトを防御してくれる真の味方は、薬より何よりヒト自身の体に備わっている抵抗力である。それは「免疫」と呼ばれる体の防御反応で、つねに外部から体内に侵入してきた異物を発見しては排除している。風邪を引いて具合が悪くなっても、そのうち快復してもとのように元気になるのは免疫機構が病原体を駆逐するからであり、一度「はしか」にかかったら二度とかからないのもやはり免疫のおかげた。

 だがマラリア原虫の場合、ヒトの免疫機構をかいくぐる術に長けている。マラリア原虫はヒトの体内に侵入すると、免疫が強化される前に細胞に入り込んで身を隠し、静かに増殖しては徐々に赤血球を破壊していく。そして、免疫が自分の遅れに気づいたときにはすでに身体中マラリア原虫だらけという状態になってしまう。とくに免疫機構が未完成な幼児や、妊娠している女性にとってはそれは致命的だ。妊婦にとって夫の遺伝子が混ざった存在である胎児は異物に違いないので、自分の免疫作用によって胎児が痛めつけられないように、妊娠期間は自分の免疫を弱めているのだ。

 一方、マラリア汚染地域にはもう一つヒトにとってやっかいな別の問題があった。そちらのほうは侵入者ではなく、もとからヒト自身の体のなかに原因があった。遺伝病である。

 エジプトで発掘される六〇〇〇年以上の前の人骨に、耳下骨形成過多症という骨格変形が多数見られるという。そして、耳下骨形成過多症という骨の変形は鎌状赤血球貧血症という劣性遺伝病とともに起こることが知られている。

 鎌状赤血球貧血症は、赤血球のヘモグロビンをプログラムする遺伝子のなかの、たった一つの塩基対が変異しているために生じる病気である。ヘモグロビンタンパク質は二七九個のアミノ酸がつながってできているが、その変異は一個の正しいアミノ酸(クルクミン酸)を別のアミノ酸(バリン)に変え、異常なヘモグロビンをつくり出す。病名の由来は赤血球が「鎌」のような三日月形に変形してしまうところからきたものだ。

 通常の赤血球は円盤形で弾力性があり、細い毛緇血管もぐにゃりと通り抜けることができる。鎌状赤血球はそうした弾力性が失われ、血管のあちこちで詰まったり、すぐに壊れてしまう。そのために全身が酸素不足で貧血になる。

 鎌状赤血球貧血症は劣性遺伝病なので、両親から原因遺伝子を二つもらうと発症し、幼児のときに死に至ることが多い。しかし、片方の親からそれを一つだけ受け継ぐと、問題は生じない。そしてもちろんのこと、原因遺伝子を一つももらわなかった子供は正常な赤血球をもって生まれる。

 通常こうした劣性遺伝病の原因遺伝子をカップルが共通してもっていることは少ないので、病気の発生頻度も低いはずである。ところが、鎌状赤血球貧血症は一部の地域や民族に非常に多発している。それはアフリカや地中海沿岸地域あるいはインド、中央アジアに集中しており、マラリア汚染地域に重なっていた。遺伝子の調査によれば、西アフリカでは五~二〇%の黒人が鎌状赤血球貧血症の原因遺伝子をもち、中央アフリカのコンゴ、ザイール、ナイジェリアでは実に四〇%もの人が保因者だったのである。

 その理由は赤血球マラリアとの関係から明らかになった。マラリアに対して鎌状赤血球が「抵抗性」をもっていたのだ。鎌状赤血球もふだんは円盤形をしているが、酸素を運ぶ仕事をした後、赤血球内の酸素が少なくなると変形しやすくなる。これは異常ヘモグロビンが固まるためだ。そこヘマラリア原虫が侵入しても容易に増殖できず、増える前に赤血球脾臓で原虫もろとも解体される。

 つまり、こういうことだ。鎌状赤血球貧血症の原因遺伝子を二つもって生まれると、マラリアにはかからないが、貧血症自体によって幼児のときに死亡するか、治療しても長くは生きられない。また、原因遺伝子を一つももたずに生まれると、貧血症にはならないが、マラリアに感染する危険が大きい。しかし、鎌状赤血球貧血症の原因遺伝子を一つだけもって生まれるとその人間は貧血症もなく、マラリアにもおびえずに生きていけるのだ。

 なぜ、原因遺伝子が一つでもマラリアに抵抗性があるかというと、その遺伝子が異常ヘモグロビンをつくっているからで、その意味では鎌状赤血球貧血症は完全な劣性遺伝とはいえず、「相互優性」遺伝にあたる。すなわち、片方の遺伝子が正常なヘモグロビンをつくり、もう片方が異常ヘモグロビンをつくることで、マラリアと貧血症の両方から逃れるのである。「相互優性」の代表的な例にABO式血液型がある。A型とB型の遺伝子は相互優性で、二つの遺伝子をもつ人は[AB型]になるのはよく知られている。