老人医療の呆れた現実:悪徳医師の金稼ぎ

 高齢化社会がより一段と進めば、私はこの社会に適応して歪んだモラルが生まれるような気がしてならない。現在とは異なった倫理や思想が育まれ、そのことが特別に奇異に思われないという事態にもなろう。

 なぜそのようなことをいうかといえば、高齢化社会の第一段階といっていい現在、すでにこれまでの道徳や倫理とは異なる規範が生まれつつあるからだ。昭和五十年代に老人医療がどれほど疲弊した状況にあったかは、すでにくり返してきた。その中で、もっとも私を驚かせた一例がある。営利のみを重視したある老人病院の医師と看護婦を取材していたときに聞いた言葉である。

 この病院は東京郊外の人里離れた地にある。入院しているのは大体が他の病院で歓迎されない患者であった。身寄りがなかったり、家族に見はなされていたり、慢性疾患を幾つももっていて治療が大変であったり……という患者である。このような患者を、病院側は検査づけ、薬づけ、それに注射づけにして、患者の容態など知ったことではないと、保険点数をあげるための治療を行なっているのである。

 あげくに容態が悪化すれば、「三ヵ月で逝かせるメニュー」をつくりあげ、最大限利益のあがる治療を行なって、死に至らしめる。あるときから自省にさいなまれた医師がこの病院を離れたあとに、私は取材して知ったのだが、もうそろそろこの患者は逝かせようかとひそかに薬剤師などと話し合って、そのメニューを実施するのだという。

 この医師は、他の医師や薬剤師と「目と目でそのような会話を交した」といっていたから、お互いに良心は傷ついていたのだろう。このような医療によって老人患者は死亡する。身寄りがなければ行政側が引きとり無縁仏とする。身寄りがあっても、駆けつけた家族は悲しそうに見える表情はするが、「目は安堵の表情で、それが私の救いだった」というのだ。

 つけ加えれば、このような医療に手を染めた医師は莫大な収入は得ることはできても、夜闇には(特に夜勤で病院の廊下を歩いているときなど)そうして逝かせた老人患者の像を見たと錯覚することがあるという。悪徳老人病院には、必ず「どこの部屋には幽霊がでる」といった類のひそひそ話があるともいう。

 私は、この話を聞いたときに、背筋が寒くなるのを覚えた。だが医師や薬剤師の話を聞いていると、彼らはそういう空間に慣れてしまい、別にそのことに疑念はもたなくなったというのであった。むしろ自らの医療は本人のためにもなるし、社会のためにもなると考えるようになったと洩らしていた。

 この種の病院は表だってはなくなったとされている。しかしこれに近い医療は現在も行なわれているというのが、これらの医師たちの正直な感想であった。

 高齢化社会になれば、その医療環境が現在とは異なったものになるであろう。そのときにこのような歪んだモラルが一般化しないという保証はない。人間はある場や環境では、神にも仏にもなるかわりに、ある場でぱ悪魔にも変わりうる。高齢化社会にしか見られない特異な状況で、この枠内でしか通用しない医療モラルが生まれないように、今から心しておかなければならないだろう。

安楽死尊厳死保阪正康著(1993年)より