飽食シグナルとは

 

シグナルの放出にかかわる遺伝子の発見
レイベルは、幅広い知性を持ち、家庭を大切にし、長く公共機関で患者の診察にあたっていた。彼は異色の人物だ。医学部では精神医学を専攻していたが、フロイトユング精神分析では崖っぷちに立っている人間を連れもどすことはできないと感じ、人々を崖そのものに近づけないために、小児医学と内分泌学を専門にするようになった。

 その彼がロックフェラー大に赴任し、肥満の基礎研究と治療にかかわることになった。

 レイペルは、肥満の原因である食欲についてこう推論した。食べるか、食べないかを身体に伝える飽食シグナル(飽食因子)が必ず存在する。しかもこの飽食シグナルは、体脂肪から放出され、脳に伝わり、食欲を抑える、と。

 そこで彼は、標準体重のマウスの脂肪組織を用い、そこから放出されると思われる飽食シグナルを探した。また、遺伝的な理由で特別に肥満したマウスを用いて、同様の研究も行っていた。飽食シグナルとはいったい何なのか。真っ先に思い浮かぶのは、リグリセリドが分解してできるグリセリンの可能性である。血液中のグリセリン値は体内の脂肪細胞の数に比例するから、高グリセリン値が身体に食べるのをやめさせる飽食シグナルを送るのかもしれない。

 この仮説を検証するためにレイベルはマウスにグリセリンを注射した。マウスは最初の数日のうち、あまり食べなくなったが、1週間もすると、食欲がもとにもどった。

 彼はこの実験をヒトにも試したが、ヒトにはまったく効果がなかった。グリセリンは飽食シグナルではないことが明らかになった。

 誰にも飽食シグナルの正体はわからなかったし、イ可が飽食シグナルを放出
レイペルは肥満の原因である食欲について、食べるか食べないかを身体に伝えるシグナルが存在すると推論した。彼はシグナルの放出にかかわる遺伝子を分離しなければならないと考え、フリードマンと共同研究を始めた。わかっているのは、飽食シグナルを送るタンパク質が欠如している、あるいは、このシグナルが伝達されないために、遺伝的な理由でプクブクと太ったマウスが存在するということだ。

 彼は、飽食シグナルの正体を明らかにするには、このシグナルの放出にかかわる遺伝子を分離しなければならない、と結論するにいたった。瀦イベルは脂肪細胞の生理学には精通していたが、遺伝子をあつかう分子

   生物学には弱い。そこで、彼は、飽食シグナルの放出にかかわる遺伝子を捕えるために、分子生物学の得意な同大のジェフリー・フリードマンとの共同研究を開始した。

 そして1994年、遺伝的な理由で肥満したマウスから、フリードマンは、その原因と思われる遺伝子を発見し、用意周到に特許を申請した後に、雑誌『ネイチャー』に論文を発表した。

 だが、この論文を見たレイベルはビックリ仰天。この論文には、研究資金を調達し、研究指導を行ってきたレイベルの名前がなかったからだ。

 フリードマンは、狡猾にも、この研究成果の名誉を独占し、特許から発生するであろう富の独占を試みたのだった。

 この手の事件は頻繁ではないが、たまに起こる。研究者もふつうの人間であるから、名誉、金銭、地位に狂わされることがある。研究者が道徳倫理の観念にすぐれているなどと錯覚してはならない。